〇奥村家について

 奥村の発祥は初代利助【天正十五年(1587)】から黒田家の家臣として仕え、筑前国における藩主黒田家と関わる歴史を持ち、同じく黒田家家臣から勘合貿易を行う御用商人として大賀家と行動を共にしました。明治13年(1880)大賀信敬氏は博多を離れるとき、大賀家に伝えられていた同家の家宝、大賀宗九・宗泊父子のいくつかの遺愛品を奥村次吉(保延)に譲りました。その事実は『唐櫃記』に記され、大賀家との親交を知る事ができます。

 

 祖、奥村弥右衛門寿庵は藩主黒田長政の持船『飛竜丸』の船頭となり、大賀黒左衛門が朱印状を受けて慶長十二年(1607)暹羅国に渡海、帰国して後、博多中島町でたばこ屋を開業しました。屋号を煙草屋(たばこや)といった由来となりました。

 藩主黒田光之の治政のとき藩の財政が極度に貧乏した際には御用銀合計一万三千貫余を送銀することを家業とすることもありました。

 また、聖福寺の名僧、仙厓和尚は奥村家の繁栄を慶び、自ら墨書して『奥村』の扁額を与えるなど奥村家とは親交が深い関係でした。

 

〇奥村家と醤油の関わり

 奥村家本家【麹屋番奥村利助(利左衛門)】四代目の弟(安兵衛)が分家して博多中島町で醤油の醸造(中島醤油)を始め、長男(源吉)の弟三人も各町に分家して、醤油を製造販売し、家業としました。以降、奥村源市、奥村利作、奥村利吉、奥村治吉、奥村伊右衛門、奥村治七、奥村利平ら大資本を要する醸造家として、同族的な企業の発展をはかり、享保、宝暦、天明、と相続く大飢饉を乗り越え、博多の幕末にマニュファクチャーの勃興期をつくりました。

 福岡県は日本一醤油醸造元が多く存在し、奥村家がその中心的な役割を果たしていたと言っても過言ではありません。

 聖福時の名僧、仙厓和尚は奥村家の繁栄を慶び、自ら墨書して『奥村』の扁額を与えるなど奥村家とは親交が深い関係でした。

 

 ↓福岡県醤油同業組合の證

昔、奥村家が関わっていた醤油のラベルです↓。

 

奥村各家の店舗風景↓